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サバスアクティビティ
「生徒の証」
修養会二日目
湖の見える場所で聖日礼拝を行いました。
生徒による証でした。
今日は、私たちをとり囲む「かこい」規則や社会などについて、また神様の「かこい」について少し考えてみたいと思います。
まず皆さんは、私たちが囲まれているものをイメージしたら、何が思いつきますか?私は中学校、家族、日本、世界を想像しました。この言葉を思い浮かべてみると、時々私は学校や家の決まり、コロナウィルス対策などは、ルールが窮屈だと思ったり、そこから抜け出して自由を得たいと思ってしまいます。
しかし確かにこのような囲いの中にいると自分たちの行いが制限されることはありますが、それは「悪いもの」なのでしょうか。そして私たちは年を重ねるにつれて私たちを取り囲んでいるものがなくなり、自分の行動や自分の入るかこいを決める選択肢が与えられます。例えば一人暮らしをして、自分で仕事をしてお金を稼いだり、お肉だってお菓子だって、いくら食べても、叱られることはありません。
早く大人になりたいと思う人は多いでしょう。でも、そこで忘れないでほしいのは、今まで私たちが、囲まれていた囲いに私たちは、守られていたということです。もし、コロナウィルス対策で学校がアルコール消毒、机の仕切り版、マスクなどを用意せず手洗いやうがいを呼びかけなければ私達の感染率は上がったでしょう。もし食堂課が毎朝、毎夕にポテトチップスとお肉、パンしか出さなかったら、私たちの健康状態はどうなったでしょうか?きっと健康を保つことができなかったでしょう。三年生になって皆を助ける、守る、支える立場になりルールを決めたり、変えていくこともしました。その中でその仕事の責任の重大さ、ルールがなぜ必要なのかを感じだと思います。ルールはすべてなくしてしまえ、という人はいないと思います。
社会の授業で私たちは「社会的存在」で、一人では生きていけない。と学んだほうに、一見窮屈に思える「かこい」に私たちは守られていたことを忘れないでほしいです。そして私はこれは「神様のかこい」でも同じことが言えると思います。「神様のかこい」の中にいるとは、神様と交わることです。最近の私は、家でスマホを使えるようになって、神様より、そっちに気をとられたり、次の日の事を考えたり、神様と過ごす特別な日、安息日を楽しめなくなってきいました。大きくなっていろいろな事由が増えていき、神様から心がどんどん忙しくなっていき、神様と個人的に交わる時間が少なくなり、時々安息日はなぜあるのだろうと思ってしまったこともあります。
しかし今までを振り返ってみると、いつもつらい時、悲しい時聖書を読んでお祈りをして神様に励まされています。自分が何かに成功したことは、自分の力ではなかったのだと思います。私は物事がうまくいったとき、自分の力だと高ぶってしまうことがあります。しかし、全ては神様の力によるものです。私たちがへりくだり、神様から力をもらったとき、心が平安になります。これこそが真の「神様のかこい」の中にいるということだと思います。
私たちはアダムとエバのように、自分の力で今があると誇ってしまう時、神様のわくから出てしまいます。世の週末時代を歩く私たちを滅びへ導こうとサタンは、今まで以上に大きな力を発揮しています。聖書を読みます。マタイによる福音書18章10節~14節
10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 11† 12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
もし皆さんが自分が神様から離れていること、自分には神様が必要だったことに気が付いたら素直に神様のみもとに行ってください。神様は今もずっとあなたが神様のみもとに立ち返るのを待ってくださっているのです。放蕩息子の話のように私たちが父のもとに帰ってくるの私たちを大歓迎してくださいます。一方で、神様はみもとから離れている我が子を見てどんな気落ちでしょうか。我が子を守ることができなくなるのです。どうか色々なものを自分で選択するときに、「神様のかこい」を思い出してください。みなさんは神様の「かこい」の中で生きていて、本当の幸せとは、その「かこい」の中で神様との関係を深め歩んでいくことなのです。