“Mission with Spirit” 聖書を土台に、福音を宣べ伝え人に尽くす。

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専門学校三育学院カレッジ ホーム > 新着情報一覧 > [全学共通] 2017年3月1日 22:21

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全学共通

2016年度卒業式 式辞

22:21 UP



 卒業生の皆様、ご家族、保護者、そしてご友人の皆様おめでとうございます。また、お忙しい中ご出席下さいましたご来賓の皆様に、心より御礼申し上げます。

 卒業生の皆様は、4年間、3年間あるいは1年間三育学院で学ばれました。そして、学位記、また卒業証書を受け取ろうとしています。卒業の日を迎えるまで様々な苦労を経験されたことでしょう。楽しいこともそれ以上にたくさんあったと思います。卒業するのは簡単なことではありません。皆様ががんばった証として卒業証書、学位記を受け取るのです。ほんとうによくがんばりました。同時に、みなさんを支えてこられたご家族や友人、いろいろな人たちの応援を受けて、今日の日を迎えたこともまた事実ではないでしょうか。卒業式は、皆さんを支えてくれた家族や良き仲間に感謝するときでもあり、また喜びを分かち合う日でもあります。

 三育学院が教育の土台としている聖書にこのような言葉あります。
「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」

 不思議な言葉です。パンを水の上に投げても意味がありません。なんら利益がないように思われます。パンは日々の必要であり、しっかり握りしめていたいものです。確保しておきたいものです。そのパンを水の上に投げる。それは、利益や見返りを求めるような行為であるとは思われません。新しい枠組で捉えなければならない意味を持っています。

 しばらく前に、東京校舎の先生から報告を受けました。
車や人の行き交う交差点で、高齢者が転んでしまいました。通勤通学のため先を急ぐ人たちはその高齢者を助けようとしませんでした。そこに居合わせた三育学院の学生が高齢者を助け、そのために遅刻しました。学生は、遅刻をしてすみませんと謝りました。東京校舎からは、わたしたちの学生は本当にすばらしいという報告でした。

 高齢者が転んだ交差点を通りかかった人たちにとって、お年寄りのために時間をとり、その結果遅刻するようなことは「パンを水の上に投げる」ような行為であったのかもしれません。足早に通り過ぎる人たちは、心の冷たい人たちではなく、親切な人がいたら良いのに。時間のある人が対応してくれると良いと思っていたのではないかと思います。しかし、立ち止まり、自分のパンを投げようとまでは思わなかったのです。一方、三育の学生は立ち止まったのです。そして、自分のパンを水の上に投げたのです。

 わたしは、想像します。その高齢者の気持ちを。自分を助け、顧みてくれた学生がいたという記憶は、おそらくその後も彼女を励まし支え続けているのではないか。心がくじけそうになったとき、自分のために立ち止まってくれた学生を思い起こし、勇気や希望を得たのではないだろうか。

 この報告は、わたしにとっても喜びであり、励まされる経験でした。世界は自分のパンを握りしめて離さない人ではなく、パンを水の上に投げる人を必要としているのです。そしてわたしたちもまた、パンを水の上に投げるような人たちによって支えられて来たのです。

 今、自分の国の利益を最優先するという主張がアメリカでも、ヨーロッパでも叫ばれています。「アメリカ・ファースト」というようなスローガンに顕れている主張です。自分のパンを握りしめて手放そうとしない生き方のようにも思えます。一方、聖書を開きますと、パンを裂く、あるいは分かち合う情景が数多く描かれています。キリスト教の儀式、聖餐式でもパンを分かち合います。

「あなたのパンを水の上に投げよ」と聖書に書かれいますが、なぜ、パンを水の上に投げられるのでしょうか。

「自分のことなど誰も考えてくれない。」「自分はひとりだ、孤独だ」と思うと人は、パンを握りしめるのではないでしょうか。そして、それは当然のように思えます。

 卒業式のような節目に、わたしたちの歩みを振り返り、思い起こしてみますと、わたしたちは、実に多くの人たちに支えられていることがわかります。家族や、友人、同級生、ときに見知らぬ人にさえ。
決してひとりではないのです。

 聖書からイエス・キリストの言葉を読んでみます。聖書には、わたしたちは、一人ではない。多くの人に、またとりわけ神に支えられていると様々に、何度も書かれています。その中から一つの言葉を選びました。みなさんが過ごされた大多喜のキャンパスを思い起こさせる、そして皆さんが経験してきた身近な風景だからです。
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。・・・また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」
   マタイによる福音書6:26,28-30(口語訳聖書)

 大多喜の空には鳥が飛び、楽しそうなさえずりが聞こえてきます。キャンパスには野の花がたくさん咲いています。空の鳥は養われ、野の花は美しいのです。聖書は、空の鳥、野の花以上に神はわたしたちをかえりみていてくださる。心にかけてくださると語りかけています。

 教会は、それを思い起こすことができる場であります。心にかけて下さる方がいる。ひとりではない。勇気と希望、そして感謝を思い起こすことができる場です。卒業しても是非、教会を訪ねて下さい。わたしたちはひとりではないので、孤独ではないので、心にかけてくださるかたいるので、パンを水の上に投げることが出来るのです。

 先程の聖書の言葉には、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」とありました。時がすぎ、振り返るとき、かけがえのない豊かさがわたしたちのうちに与えられていることを発見するのです。

「パンを水の上に投げる」人物をこの世界は必要としています。利益を超えて、見返りを求めず行動する人物が病院で、学校で、教会で、あるいは会社や組織において必要とされています。

 皆様一人ひとりはこの世界に、そして人々に必要とされています。
なくてならない人物であります。そして私たちは、みなさまの今後の活躍にとてもわくわくしているのです。

 卒業生おひとりおひとりの前途に神の祝福を祈ります。

学長 東出克己